小諸市のご紹介

小諸市の歴史

小諸市の歴史をたどって見てみると、まずその黎明ともいえる時代が、数多くの縄文・弥生文化の遺跡の発掘から紐解かれていきました。
そうした時代から、徐々に農耕や牧畜といった生活の手段を手に入れることで、集落が形成されていきます。

集落を中心とした社会が進展していくとともに、次第に律令の制度などが整備されていき、官道に駅馬、伝馬制といった制度も設けられていきます。

それとともに、交通の手段であった人馬の往来を中心とした集落がさらに発展し、町を形づくっていったのです。

小諸城址懐古園の三の門
小諸城址懐古園の三の門

時代が流れ、戦国時代になると、現在の二の丸跡に大井庄の豪族が支城を建造したのが、小諸城の始まりであるといわれています。

武田信玄が浅間山を背にした斜面と、千曲川に至る断崖絶壁の自然の地形に着目し、その地形を存分に活かすことによって要塞の基礎を築き、それを受け継いだ仙石秀久が現在まで残っている城の規模にまで整えたと言われています。

現在の大手門公園
現在の大手門公園

現在でも市街地の中心部にあり、公園にもなっている大手門は、このときに建立された正門です。

その後も、時代の変遷とともに城主が入れ替わっていきますが、小諸城は別名として、酔月城(すいげつじょう)、鍋蓋城(なべぶたじょう)、白鶴城(しらつるじょう)といった風情のある名称で呼ばれていた事もあります。

さらに時代は流れ、領土の主が武田家から織田家、豊臣家、さらには徳川家へと移り変わります。

中山道、北国街道、甲州街道の交わる交通の要所として城下町が形成されていき、数度の領主交代の後、1702年(元禄15年)、牧野康重が1万5千石をもって入城します。それ以降の約150年間は、明治維新に至るまで、牧野氏が10代にわたって居城としました。

江戸時代には、街道が発達して人や物資の往来が多くなっていきましたが、日本海沿岸地域まで至る北国街道(ほっこくかいどう)が中心となって、宿場町として栄えていきました。

本町通りにあるそば七は旧家を使っている
宿場街の名残を残す本町通り

北国街道は、加賀百万石の参勤交代の際の通り道となっていたことも、宿場町として栄えていく大きな要因となりました。現在でも小諸の街で見る事のできる旧本陣は、北国街道沿いに残る貴重な本陣のなかのひとつになっています。

また、北国街道は当時の重要物資であった金の輸送ルートでもあったことから、「金の道」と呼ばれていた時代もありました。

明治維新を経て、明治時代になると、近代工業の幕開けとともに「製糸の町」として発展をしていきます。生糸を中心とした産業と、その取引を行う商業はこの地 を活性化し、生糸を求めて日本全国から集まってきた商人たちの宿場町として非常ににぎわいました。当時の写真が、市立図書館にも所蔵してありますが、町中 にのぼりが立ち並び、人の往来もとても多くて、いかににぎわっていたかが良くわかります。

この時代に活躍した問屋商人は、堅実な商風が関係者に高く評価されており、県内外からの重要な商業の町として発展していきました。またそれにともない、文化の振興にも人々は尽力し、多くの文化人との交流が形成されていきます。

こうして、小諸の町は江戸時代以降から、関東と信州、さらには日本海沿岸地域までを結ぶ交通の要所として、また生産や物流の基地としての商業都市、宿場町として発展してきました。

明治9年には、小諸城下4町(荒町・市町・本町・与良町)と14町(耳取町・馬場町・袋町・足柄・筒井町・鹿島裏・五軒町・馬場裏・樋の下・七軒町・中棚・赤坂・大手・丁場)をあわせて、長野県佐久郡小諸町となりました。

さ らに時代は流れ、戦後になると行政が変わっていきます。昭和29年に、北佐久郡小諸町、三岡村、南大井村、北大井村、大里村、川辺村の1町5村が合併する 事で市制がスタートし、昭和32年には乗瀬地区、昭和34年には小県郡東部町(現在の東御市)旧滋野村地区の糠地、天池、井子、押出、芝生田地籍を編入し、現在の小諸市の形を作り上げてきました。

 

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